月が綺麗だからなんだって話で

アセクシャルな人間の雑記

桜梅桃李

おうばいとうり

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草木の枯れるこの時期にこの話をするか、という気もするけれど、私が一番好きな言葉がこの「桜梅桃李」(李は、すもものこと)

 

超端的にいうと、「それぞれが独自の花を咲かせること」「人も一緒でなくて良い、それぞれの個性を磨こう」といったところかと。とはいえ出典はそこそこあるので、一概にこの意味で広まるのはどうなんだろう、とうっすら思っている。

「みんなちがってみんないい」と要約されがちだけれど、この表現は昔から周りの大人が表現を逃げる時に使っていたからあまり好きじゃない。

 

「みんなそれぞれ良さがある」という一番有名な意味は日蓮の言葉で、

《是れ卽ち櫻梅桃李の己己の當體を改めずして無作三身と開見すれば、是れ卽ち量の義なり》

というもの。仏法の言葉で、序盤で私が超ざっくりまとめてしまった言葉よりはずっと深い意味がある。はず。宗教のことは私にはよくわからないのでこのへんで。

 

ちなみに桃李だけなら日本の古文だけでなく、中国の『史記』でも出てくる。

《桃李不言下自成蹊(とうりものいわざれども、したおのづからこみちをなす)》

桃や李は何も言わないけれど、花を咲かせ実を結ぶと、その香りにひかれて人が集まってくるので、下には自ずと踏み分けられて小道ができている、というどちらかというと人格者的な意味。

 

人前で好きな言葉としてこれを出す時、いつも「ああ、それぞれがそのままでいいよってやつね〜」と言われるのだけれども、そんな意味だけで好きな言葉なわけじゃない。

既に出したふたつだけでなく、昔の書物で色々と出てくる言葉なのだけれど、私は鎌倉時代に書かれた『古今著聞集』の中の意味合いが一番好き。この中の『草木』という話にこの言葉が出てくる。

『草木』の章が高校生の時に教科書か国語の資料集に載ってたのを見た時期と、俳優の松坂桃李さんが自分の名前の由来を話していた時期が被っていて、それ以来、私の好きな言葉になった。(お父さんが史記の意味を、お母さんが古今著聞集の意味を込めたらしい)

話を戻すけれども、古今著聞集の中だとすこし受け取れる意味が変わってくる。

 

《あゝ春は櫻梅桃李の花あり

    秋は紅蘭紫菊の花あり

    皆是れ錦繍の色 酷烈の匂なり

    然れども昨開き今落ち 遅速異なると雖も  

    風に隨い露に任せ 變衰遁れず

    有爲を樂しむに似て 無常を觀ず可し》

 

古今著聞集では、花や実をつけるところだけでなく、枯れる時の話や結局何事にも終わりがあることが書かれている。私はひねくれ者だから、栄えてる時だけの話をされても「どうせ廃れたらみんな忘れるのにさ...」と思うので、ちゃんと世の無常感をうたっているこの話が好きだ。

《風に隨(したが)ひ露に任せ》は、口に出すとすごくリズムもよいし舌触りが良くて好きな部分。それに比べて他のところはちょっとまごつくよね、鎌倉時代の人はこのリズムが心地よかったのかな。

 

もし今仕事を辞められてたくさんお金があったら、私は古典文学の勉強がしたい。百人一首とかもちゃんとすんなり意味を理解できるようになりたいし、御伽草子とか昔のすてきな物語をそのまま読めるようになりたい。大学に行って勉強するのも楽しそうだし、自分で図書館に行って、学生の頃に使っていたもうぼろぼろの文法帳を引っ張ってがんばるのも楽しそう。全部、そんな余裕ができたらの話だけれど。

今は、通勤中に読もうと思っていたのに藤壺で止まっている源氏物語を読み進められるだけの気力と余裕がほしい。

将来のことを考えると「もう色々はじめるには遅いのかなぁ...」なんて怖気付いてしまうときもあるけれど、そんな時にこの言葉をなんとなくふと思い浮かべて、「春と秋は若い頃という意味ではないと思うし、もし春はもう過ぎていたとしても秋が来るもんね」と最近ようやく思えるようになってきたので、すこしは成長したのかなと思いたい。