逆光だったのもある、それでも輪郭以外見えなかった。
すこし暗めの、どのパーツも見えない顔だった。
目の前には輪郭のない建物と、丸くぼけたあかりと、うっすら形がわかるアパートの階段、全部がぼやけていて。はっきり捉えらえるものは、何もなかった。
初めて、自分の目がここまで見えないということに気がついた。
普段眼鏡を外しているときは、案外近くに何かあって、そこにピントが合うようになっているおかげで見えている気になる。見えている気になっていた。というか、見えていなくても困らなかった。
本当の「見えない」を知らなかった。
きのう、玄関の前に座ってたばこを吸っていたとき、なんとなく、ぼんやりとしてるなあとうっすら感じた。しばらくしてから来てくれた彼の顔をそのときは見ることができなくて、彼の持って来てくれたコップを目で追った。コップはまだピントの合う距離にいたからそこそこ捉えられていた。たばこを吸ったおかげで気持ちが落ち着いて、ようやく彼の顔を見られるかなと思って横に立つ彼を見上げたとき、頭を強く殴られたような気がした。
彼の顔が全く見えない。
不安と恐怖と悲しみと、その他色々入り混ざって言葉にならないような感情の海にのまれて、何も考えられなくなった。
彼が何を見ているのか、彼が何を考えているのか、彼が何を思っているのか
それら全部がわからない。彼がそこにいないような気さえしてしまう。
ああ、見えない、わからない、いつもしっかり見えるのに、まさかそんなはずはない
私が座っていて彼が立っている、いつもの顔の距離とそこまで変わったわけではないのに、少しいつもより遠くなっただけで、私の目は彼の色々をうつせない
まわりを見渡してみた。暗闇にうっすら浮かぶ建物のぼやけた輪郭と、玉ボケするあかり、色以外の情報を得られないアパートの壁。
私の目は本当に何も見えないのだ、そう実感した。そこまで見えていないはずじゃなかったのに。もっと、もう少し形のある世界のはずだったのに。大切な人は、しっかり見えるはずだったのに。この目は、何も見えない。
涙がこぼれた。泣くつもりはなかったのに、涙が止まらなかった。
知らない方が幸せだったことは、今までもたくさんあった。気が滅入るくらいたくさんあった。
でも、これほど、気づかなければよかったと思うことはない。
とても悲しい、とても寂しい。
そう、寂しくて、怖くて
だから涙が止まらなかった
見えなくなるなんて、ずっとこのままなんて、絶対にいやだよ
ちゃんと見えるようになる日がくるのかな
ちゃんと見えるようになる日がきてくれなきゃ、いやだよ