月が綺麗だからなんだって話で

アセクシャルな人間の雑記

生まれつづける言葉のなかで、生きるということ

note.mu

私の大好きなライター、カツセマサヒコさんのこのnoteをぜひ読んでみてください。書き出し最高ですよね。

ずっとこの日のことを書きたいと思っていたのだけれど、どうしても途中から前に進めなくて、しばらく整理するための時間をおこうと思っていた。そんな時に更新されたカツセさんのnoteを読んで、そこから数日経ってまた書けるようになったので、“質問の激しさの弁解”と“この日救われたこと”を書きたい。

 

このイベントは鈴掛真さんの『ゲイだけど質問ある?』の刊行記念のトークイベントだった。 鈴掛さんの短歌は何度かTwitter で見たことがある、といった程度で大してなにかを知っているわけでもなかったのだけれど、鈴掛さんとカツセさんがLGBT の話や「言葉で世界は変えられるのか?」という話をするイベントだと知って、行くことを決めた。

『ゲイだけど質問ある?』はLGBT 入門書にはうってつけだと思う。どんな人でも読みやすいんじゃないだろうか。章末には鈴掛さんのすてきな短歌が添えられているのも良い。鈴掛さんの体験や気持ちがたくさん書かれていて面白いので、ぜひ読んでみてください。

 

ゲイだけど質問ある?

ゲイだけど質問ある?

 

 

以前ここでも書いているのだけれど、私は自分のことをアセクシャルだと思っていたのに、「恋人」ができたことで余計に自分のセクシャリティがわからなくなってしまい、もっと細かく調べてみると、当てはまるような当てはまらないような微妙な分類がたっくさん出てきてしまって、もっと孤独な気持ちになったことがあった。今回イベントに行くことで、その孤独をどうにかできる突破口が見つかればいいなぁと思っていた。

ずっともやもやしてるしこういう話が出たらうれしいけど、でも一部の人にしか当てはまらない話なんてしないかな、おふたりはどういう話をされるのかなぁ、とどきどきしながらチケットを買った。

tskmrso.hatenablog.com

(カツセさんのnoteはぜひ読んでほしいけど、私の記事は長いので読まなくても大丈夫です。でも読んでもらえたらそれはものすごく嬉しいです。)

 

 

当日、イベントが始まってわりとすぐ、カツセさんが「アセクシャルの人を好きになった人から相談されたことがある」という話をされて、アセクシャルと恋愛の話になった。まさかこんなに早いタイミングでアセクシャルって言葉が出てくるなんて思わなかったから、その時は「うわ!まじか!ありがとうカツセさんに相談した人!」と嬉しくなった。まさか私が一番聞きたいテーマがいきなり最初に出てくるなんて思わないもの!

脳内で小躍りしてると、鈴掛さんから「アセクシャルってあまり知らないんですよね」的な言葉がかえってきて、はしゃいでる頭の中のちっちゃな私はピタッと動きを止めた。

 

ああ、知らないんだ。よくわからないんだ、そっか。こういう活動してるのに?

そう思った。

なぜなら、私としてはその日の鈴掛さんは《セクシャルマイノリティ代表》として登壇してるという認識だったからだ。でも、それは私の認識違いだった。カツセさんも書いているけれど、その日の鈴掛さんは《歌人でオープンリー・ゲイの鈴掛真》としてその場にいるだけで、何もセクシャルマイノリティ全員を背負ってその場にいるわけではない。というか、鈴掛さんのインタビューを何本か読んでも、セクシャルマイノリティどころかLGBT を代表して喋ってることなんて一度もない。

そのあとの「ゲイじゃなくて、僕の意見です」という言葉を聞いて、ハッとした。

私の中には、「LGBT に関する活動をしている人たちはみんなセクシャルマイノリティについてよく知ってて当たり前」というクソみたいな固定概念があって、そういう目でその人たちを見てしまっているのだ、ということに初めて気がついた。

 

今回のイベントでは、私たちが匿名で書いた質問をお二人が選んで答える時間があった。私が自分の偏見に気がついた頃にはもう質問は書き終えてしまっていて、推敲し直そうにもお二人の話が面白くてそんな隙もなく、回収され、運のいいことに選んでいただけて...。

相当強い言葉を書いてしまったなと、鈴掛さんが読み上げる声を聞いて思った。

私は昔、自分のことをアセクシャルだと思っていました。先程『アセクシャルのことはよく知らない』とおっしゃっていましたが、それを聞いてあの頃私が感じていた孤独感は正しかったのだなと思いました。お二人は、マイノリティの中のマイノリティについて、どのように感じますか?

なんかこんな感じの文だったとおもう。もう少しまとまりがなかったけど。本当に聞きたいことが漠然としていたのもあって全然上手く文章にできなくて、こんなんで言いたいこと伝わるの?大丈夫?と思うレベルだ。

 

このとき私が本当にしたかった質問は、

私がまだ自分をアセクシャルだと思っていたとき、セクシャルマイノリティの集まる場所に行ってアセクシャルだと打ち明けると、『ああ、人のこと好きになれない人ね。そんな人がいるとは思えないけどね〜』といった対応をされたことがあります。

セクシャルマイノリティを知ってほしい、受け入れてほしいと活動してる人たちに「知らない、受け入れない」と言われた気持ちで、あなたたちもヘテロと同じことをしているじゃない...と悲しくなりました。

セクシャルマイノリティという括りを知って自分の居場所が見つかって安心できたのに、その中で受け入れてもらえなくて傷ついて、世の中ではさらにさらに細かい枠ができていてもはや自分がどこの括りに当てはまるのかもわかりません。どの括りにも当てはまらない気もします。

そんな括りや言葉ならもはや無い方が良くないですか?外に向かって違いを認めてと叫ぶ人たちも、結局は自分と違う括りの人たちのことは知ろうとしませんよね。

じゃあ括るだけ無駄じゃないですか?そんなにたくさん言葉を生むだけ酷じゃないですか?括りを知って安心したけれど、その先の「括られて苦しい」という気持ちに今私は囚われています。

 

長すぎて草。でも、本当はこういうことを聞きたかった。

あんな伝わりにくい文章を書いてすみませんでした。

 

お二人の話に夢中でメモなんかとってなかった私が、おぼろげな記憶で「鈴掛さんは」「カツセさんは」って間違いを書いてしまってはいけないので詳しくは書かないけれど、鈴掛さんの回答はすごく、強い人の言葉だなと思った。自分で自分のセクシャリティと「どう生きていくか」「なにが自分か」がもう随分前に決まった人、から出る言葉のように思えた。

あの鈴掛さんの言葉に勇気付けられた人、肯定された人、世界が変わった人はたくさんいたと思う。でも私は正直「やっぱりその括り(LGBT)に入れる人は強いよなぁ...」と余計に落ち込んでしまった。

 

「個の時代だからね」と言われても、その《個》というのはそもそも《集団》がないと成り立たない。個は集団の中で認識されて初めて《個》であれる、と私は考えている。《セクシャルマイノリティ》は《ヘテロが常識だと思われている世界》という集団の中で認識されるようになった《大きな個》だ。

その《セクシャルマイノリティ》という集団の中に《恋愛感情を持たない個》が存在するはずなのだけれど、私の体験は「その集団の存在に救われた《個》が、いざその中に入ってみると《個》の存在自体を認めてもらえず、自分でも見失ってしまった」というもので。

「君は君、僕は僕、そういう時代になっていけばいい」というのは《認められてる側》の人たちの意見だと思うと同時に、私の中には《その人たちに認められなかった》ということが大きなコンプレックスとして根を張っていることに気づいた。だから、鈴掛さんのあの答えを聞いている間、私は余計に辛くなってしまった。 

確かに「アジア人でなく日本人、日本人である以前に俺」なんだけど、私はまず、アジア人であると周り受け入れてもらいたかった。

私はずっと「アジア人でいいんですよ、そして日本人ですよね」と言われたかったのだ。

 

 

一方、カツセさんは「括られることで苦しくなってしまう人もいるかもしれない」というような回答をされた。私の文章はわかりにくすぎたので、きっと先に話した鈴掛さんの言葉への返しだったとは思うのだけれど。

「括られて嫌だと思う括りだってある」という視点にこれまで私は気がつかず、がんじがらめになって身動きが取れなかった。けれどカツセさんの言葉を聞いて私は、「身動きが取れなくなるほどの言葉からは逃げていい、嫌だと思っていい」という超根本的なことに気づくことができた。その後のお話も含め、カツセさんの回答は私にとって救われる言葉ばかりだった。きっと周りの人たちから見たらほんの些細なことなのかもしれないけど、人はその些末なことで勇気付けられもするし、傷つきもするのだ。

 

誤解のないようにしておきたいのは、鈴掛さん自身は「LGBT という言葉はざっくりしているので理解されにくく、受け入れられにくい。セクシャルマイノリティはレズ、ゲイ、バイ、トランスジェンダーだけではないのでLGBT という言葉でなくて良い」うえに、「これからは個が生きる時代」だから「もっと細分化されても良い」という風におっしゃっていたので、強い立場に立って話されていたわけではない。むしろすごくフラットな方だった。

(私がひねくれているので、個だの集団だのうだうだ考えただけです。ただの八つ当たりです。)

 

 

括られることに怒りはしないけれど、苦しんではいる。

周りの人は「あなたはあなたのままで良い、属す必要はない」と言ってくれるけれど、きっと私まだは何か括られる言葉が必要なのだ。まだ、その段階の人間なのだ。しかしながら、細かすぎる括りは空っぽの場合もある。せっかく括りを見つけたのに、私しかいない。誰もいない。そんなことがあるんだと気づいたのが前のブログを書いたタイミングだった。それが寂しかったし、その寂しさをどうにかする術を見つけられないでいた。 

でも、人の数だけセクシャリティはある。セクシャリティを表す言葉もどんどん生まれる。

となると全人口分のセクシャリティを表せる言葉がいつかは生まれる。言葉と同様に、括りはどこまでも増えていく。私が苦しんだ細かい括りで救われる人は確実にいる。私と同じようにそこまで知りたくなかった人もいるかもしれない。
誰かを救う言葉で私が苦しいと感じてしまうなら、その言葉から私が逃げなきゃいけない。

 

「誰かにとっては救いで、誰かにとっては枷になる」というのは、言葉の本質だと思う。

 

言葉を使っている以上、私たちの周りでは、自分にとって良い言葉も悪い言葉も絶え間なく、雨のように降り続いている。そして、それがつらくなるときもある。

雨が降っているのを私は止められない。雨に濡れてつらいとおもう私は、その時に傘をさして歩くか、雨宿りするか、家に帰るか、雨から逃れる術を知らなきゃいけない。苦しい言葉の雨を浴びて前が見えなくなったり、息ができなくなったりするくらいなら、全力で逃げて息切れした方がマシだ。

私はちゃんと雨宿りしているのに、目の前を通ったクルマが大きな水たまりをはねて、盛大にびしょぬれにされてしまうかもしれない。それから逃げるのは大変だけど、とっさに避けられるようになるか、振り払えるようにならなきゃいけない。それか、濡れた服はクリーニングに出せばいいや、と消化できる心を持つか。

  

言葉は、必要とする人がいるから生まれる。

私たちはいつも受け入れ、拒絶し、拾い、捨てながら、言葉を使う。

全てを拾うべきではないし、全てと戦うべきでもない。

 

お二人の話を聞いて、私は逃げ方を覚えることにした。

昔の人も言ってるもの。

三十六計逃げるに如かず、って。

 

 逃げるという道を知って、

私の世界がちょっと変わった。