月が綺麗だからなんだって話で

アセクシャルな人間の日々の雑記

再びの桃

すけてんさんへ

「桃による嗜虐心と暴力衝動の煽りについて」と「愛情表現であるそれは果たして破壊行為でないと言い切れるか」という2点について、昨日まとめると言いあたかもまとめたようなタイトルでstandfmを出すも、桃は半分程度、破壊行為については全く触れられていなかったのでもう文章にします。
すみません、読んでください。笑

 

【1】桃が私の嗜虐心と暴力衝動を煽る理由

こちらについてはstandfmで「女性」と「桃の持つ甘ったらしさ」が結びついているから、とざっくりお話し致しました。こちらをもう少し掘ります。
私は男性にも女性にも性的興奮を覚えない人間である、ということを前提においていただきたいのですが、私の中で桃は男性とは一切結びつきません。おそらく私の中の男性イメージが桃と一致する部分がないからです。それはやはり桃のフォルムが女性に近いから、というのが一番の理由かと思われます。これについて、あまりにも「気持ちの悪い思考」であると感じていたのでこれまで表に出すことはありませんでしたが、『君の名前で僕を呼んで』でエリオが桃に指を突っ込んで中をえぐり自慰行為をする一連のシーンでの桃の持つ意味がまさに私の「気持ちの悪い思考」と全く同じだったため、今回初めて表明することになりました。
いつそういう意味で桃を女性的と捉えたかはもうはっきりしませんが、確か中学の家庭科の時間に観た出産に関する教材のVHSを観たとき、気持ち悪さと絶望と嫌悪と共に「桃みたい」と感じた記憶はあります。先ほどのstandfmではあまりにもヤバい思考だろうと思い伏せていたことがありますが、私は桃を見ると「潰す想像」の他に、「爆発する想像」もします。これはおそらく出産シーンを観たときに感じた「自分が女性であることへの怒り」と「生命爆誕!!」のエネルギーについてのイメージかと思われます。そう考えると、エリオがただの植物でしかない桃に突っ込んで吐き出した行為が、あまりにも虚しくなりますし、それを笑って「おやおや」と大人の対応をしようとしたオリヴァーはもうすでにいろんな葛藤を自分なりに乗り越えてきた人間なのだろうなと感じられますね。すごいな、桃。

上記はちょっと話がずれて「爆発する桃」の話になってしまったので、いよいよちゃんと「潰したくなる桃」のお話をしたいのですが、もうすでにこのようにして「桃」=「女性」という等式が成り立っていた私の思考に次に作用したのが、これもstandfmで話しました「桃の香り」です。standfmでは香りの話が出てくるのはちょっと後の方だった気がするので順番が前後してしまっていますが、正確な認知の順番では2番目になるかと思います。
桃の香りは甘ったるく、近くにあれば必ず嗅ぎ分けられてしまうし、離れた後もしばらく香りが残りますよね。まさにその香りが「女性の鼻にかかった声」に感じられるのです。桃の甘すぎて少し気分の悪くなりそうなあの香りと、耳に纏わりつく女性の不快なベタついた声。同じではないでしょうか。彼女たちはあの空気が「自分の武器」であると理解しているのです。桃に意思はありませんが、美味しい香りを出して動物に食べてもらい、タネを運んでもらう必要がありますから、香りが「自分を選んでもらうための武器」であることに変わりはありません。このような理由で、「選ばれたがっている女性」=「相手より下に立っている女性」=「桃」という等式に変化しました。

そして「相手より下に立っている女性」についてですが、私は典型的な九州男児の周りで育ってきたため、ある程度の歳まで「女性は男性の後ろに控えて」というような思想を持っていました。今でも、一緒にいる男性が支えたい、サポートしたいと思うような相手だった場合にこの思想が規範となる場合があるので、私は古すぎる価値観も持っている人間です。だからこそ自分については「男性に屈したくない」「男性パートナーの場合絶対に下りたくない」と抗うわけですが。基本的には上にいる人間の方が有利であることを理解しているからです。サポートで下に回る際は、下にいた方が私にとっては都合がいいからそちらを選んでいるだけです。
それに併せて、私は自分の心を男性的にも女性的にも寄せることができるので、男性的な心情に寄った場合、古い価値観の元で「女性は私より下に立っている」と思うことがあります。それは私がその相手の女性を「かわいいな」と思い”選んでいる”気持ちになる時であったり、誰かに選ばれている光景を目にした時であったり、選ばせている場面に遭遇したり、様々な状況下で感じています。その時の私は自分のことをかなり男性的であると考えているので、当たり前に女性を下に見てしまい、自分に選択権があるように感じてしまいます。もうこれは潜在的に刷り込まれているものです。おそらくかなり小さい時からあったと思います。初めて自覚したのは小学校3年生の時です。近所の年下の子供たちと二人三脚で競争をすることになったのですが、自分のペアの子が転んでしまい「足を引っ張られた!」と感じると同時に、その時の私は「私の方が大きくて力もあるのだからこの子を抱えて走れば勝てる可能性がある」とその子の存在自体をなかったことにしようとしました。さすがに抱えきれず、その子を少し引きずるようにしてゴールまで走りましたが、「どうしても勝ちたい、ゴールなければという思いがあると、隣で自分より小さい子が泣いていようと私はその子の意思を無視して、自分の意志を果たそうとできてしまう人間なのだ」ということを自覚し、自分を恐ろしく思いました。それから毎年体力測定では握力で本気を出さないようにするくらい、自分に力がある状態を怖いと思うようになったのです。

そしてそのような思考を持つ自分を恐ろしいと思う一方、自分より小さい子を引きずった時にうっすら高揚感があったのも気がついていました。引きずることが楽しいのではなく、自分が相手より強いと感じられることに興奮していたのだと思います。いまいちあの感情を明言できる語彙を持ち合わせていないのですが、科学者がマッドサイエンティストになるあの第一歩の時の、目がギャンギャンに開いている顔を想像していただけれるとわかりやすいかと思います。まさにあれです。それに加え、転んでしまった子は痛みに泣いていたのですが、私が人が本当に辛かったり悲しかったりする時の泣き顔にえも言われぬ「良さ(キモい)」を感じてしまうのは、おそらくそのせいです。
一応良心もあったので、もうそれ以来手荒な真似はしないようにと衝動が沸き起こるたびに抑えていましたが、桃を見るとその時と全く同じ感情が沸くのです。私に性衝動はないのであるとすれば全て暴力衝動ですが、殴り方を知らないので思いつく実行可能な暴力は「潰す」のみです。そして桃という果物はとても潰しやすい物体であり、「私の衝動をぶつけてしまえる相手」にぴったり、というわけです。これはおそらくその人にとって暴力を振るいやすい人、みたいな感覚と同じなのかと思います。純粋に危険です。そこに快感を覚えられる可能性があるのですから。

このような(超個人的な)歴史的背景があり、桃が私の加虐性を煽ってくる、というわけです。

 

【2】愛情表現と称したセックスは本当に破壊行為ではないと言い切れるか

次にこちらです。ちょっと【1】の桃の話からは飛びますが、そもそも人はなぜ「子孫を残さないセックス」をするのでしょうか。これは恋愛感情がある関係性をベースにした話です。
よく「隙間なく繋がりたい」とか陳腐なことを言いますが(この話題は私はとても嫌いな感覚の話なので急に口が悪くなります)、隙間なく繋がりたいと思っているそれは身体でしょうか?はたまた心でしょうか?本当は心の方なんじゃないですかね。でも心を完全に繋ぐ方法がわからないし、おそらく繋げられないと思っているから、身体を重ねて擬似的に一体感を得ているのではないかと私は思います。だって隙間なく繋がることなんて無理なわけですよ、マジで凹凸という文字を考えた人間超頭いいなと思うのですが、この文字だってはまるように見せかけてデコとボコの部分の大きさが違いますから、一つにはなれません。身体の構造も同じようなことで、まあ、入れれば入りますからその部分を繋ぐことはできますが、とはいえ隙間はなくならないですよね、全身で見たとき。明らかに身体よりも心の方が隙間なく繋がれる可能性は高いはずなのです。なぜって、物理より心理の方が「実体」として証明されなくて済みますし、「繋がっていない」ことに繋がる穴を潰せるわけですから。でも人間はなぜか心を隙間なくつなげる前に手っ取り早いと勘違いして身体を繋げます。そこには単純に「快楽」があるから。「快楽」を感じた時の幸福感を「愛」を得た幸福感と混同させてしまうのでしょう。だから喧嘩した後のセックスは最高だとか、なんかそういうわけのわからない文句が世の中に溢れてるわけです。お互いの物体が変わってるわけがないので、もはや気の持ちようでしかないと思うんですけどね。いつもより「しゅき♡」って思ってりゃそりゃそうでしょ。

で、ここまでで一旦軽く証明できたんですが、「子孫を残さないセックス」は特に陽の方向では戯言でしかなく特に意味を持ちません(断定)。「愛が深まる」とかそういう絵空事はここでは結構です。愛が深まるならセックスしまくってるカップルが別れる意味がわかりません。じゃあ、セックスで我々は何を得ているか、もしくは何を発散しているか、となった時に考えられるのが「暴力衝動の解消」です。(桃の話に帰ってこれそうです)

いや、普通に考えてみてほしいのですが、腰を打ち付けるって普通に考えて物理攻撃じゃないですか。そしてよくある描写で受ける側は相手の背中に爪を立てますよね。これも物理攻撃。女性の初回については無理やり開くので完全に物理攻撃。男性同士にしたって物理攻撃。むしろ受け入れ器官じゃないのでなおのこと攻撃。噛むじゃん、それも攻撃。攻撃しかなくないですか?しかもよくいうやつで「好きだから」「愛があるから」許される、とか言いますが、許されようとしているので「好きでなければ」「愛でなければ」許されないことをしている自覚があるということですよね。攻撃じゃん?となりますね。噛むのも、ひどいことをするのも、首を絞めるのも、「愛情表現」と「快楽」を得るための行為であれば許されるって、普通に考えてぶっ飛んでませんか?と思うわけです。普通に今隣にいる人の首を絞めたら犯罪だけれど、その人とセックスをしている時に首を絞めると「ああこの人はSなんだな」「この人は首を絞められるのが好きなんだな」のどちらかになってしまうのが、本当にトンデモ論ですごいな、と。暴力が暴力で無くなるのですから。

まあここまでは半分本気で半分冗談みたいな話を広げましたが、真面目な話、愛があるセックスだったとしても、それを破壊行為ではないと言い切れるのでしょうか。

「破瓜」という言葉があります。これは厳密には処女膜の損傷のことを言うそうですが、一般的にこの時には痛みを伴うとされています。男性同士の場合も処女膜はありませんが、そもそも受け入れる場所ではない部分を使うので、難しいことも多々あるでしょう。愛があっても痛みを感じる人は痛いですし、その際受ける側が快楽を得られるとは限りません。ではこの時の快楽は誰のためにあるかと言うと、その反対側の人です(同性同士の場合もあるから男性とは断定しません)。もうこの時点で一つ破壊行動が起こっていますね。飽きてきましたね、セックスの話嫌いなんですよ。
反対側の人がある程度主導権を持っている場合が多いので当たり前な話かもしれませんが、主導権がある方と言うのは「愛」とか置き去りにして「快楽」を得に行くことが可能です。だって主導権がある方が強いから。受ける側と主導権を握る側の「快楽」を素因数分解した時、おそらく出てくる数というのは揃わないと思うのです。これは喪失時だけでなく、その後のいかなるセックスの時もです。素因数分解の解が同じ場合、それを「心が繋がっている」状態というのではないだろうかと私は思うのですが、そもそも感じている快楽を得ている場所も違えば苦痛を感じている場所も違うので、ほぼほぼ解が一緒になることはないように思います。

、、、ちょっと何言ってるかわからなくなってきました。私の性嫌悪が強く出過ぎてしまいましたね。ダメなんですよね、この手のこと深く掘り進めるの。自分のことを殴り続けなきゃいけなくていつも最後まで頑張れません。

でも一番言いたいのは

いや、普通に考えてみてほしいのですが、腰を打ち付けるって普通に考えて物理攻撃じゃないですか。そしてよくある描写で受ける側は相手の背中に爪を立てますよね。これも物理攻撃。女性の初回については無理やり開くので完全に物理攻撃。男性同士にしたって物理攻撃。むしろ受け入れ器官じゃないのでなおのこと攻撃。噛むじゃん、それも攻撃。攻撃しかなくないですか?

この部分なんです。結局それって暴力じゃない?っていう。 
桃とヤったって、桃に穴をブチ開けて中のタネを取り出して空洞を作ってやらなきゃいけないので、これだって桃にとっては暴力ですし。やっぱり性欲の発散って相手がいる場合暴力のような気がするんですよ。。。
これ多分私が今の私の感情のまま身体が男だったらもっと掘れたのかもしれません。実感として得られていない性的衝動と暴力衝動が多過ぎました。ただ女性目線だと私は完全に暴力とイコールだなと思っています。

 

【1】については頑張れましたが、【2】についてはまとまりませんでしたね!ごめんなさい!終わりです!!


※犯罪行為を推奨する意図は一切ありません。