先週の土曜日に会計を済ませていたコンタクトレンズ両目半年分総額3.6万円を、TOHOシネマズ新宿のロビー階にある女子トイレの手前側個室の赤ちゃん座らせるシートに置き忘れ、思い出した2時間後に探しに行ったらご丁寧にネットで買える顧客番号の紙だけシートに置かれていて、3.6万円は綺麗さっぱり消えていた。
引いた。自分に。
そもそも事は9月の頭まで遡る。
仕事の人間関係が急に苦しくなり、縋るように日帰り旅行の計画を立てた。川下りと吊り橋を渡ることだけが目的の、他には何も付属のない旅の予定だった。行き帰りは高速バスで、目的地までは高速バスの停留所から電車で30分ほどの場所。四季折々の渓谷の景色が楽しめるとうたう川下りは穏やかそうで、吊り橋も緑緑しい森の中にかかっていて絶景を拝めるらしい。
どうしても吊り橋を渡りたかった。今までの人生で吊り橋を渡った事はなく、吊り橋にこれといった思い入れがあるわけでもない。ただ漠然と、宙に浮いてる気持ちを味わいたいと思っていた。ちょっと生から離れるような、そんな感覚。非日常な場所で少しだけ、足を浮かせたかった。あわよくばどこかに飛んでいってしまえないかと。
それからどんどん仕事(人間関係)がキツくなり、忠誠を誓っていたこの場所からもこの上司からもいつかは離れなければと思いながら、怒り悲しみながら、それでも依存に慣れている心はいつかまた以前のように参謀程度には戻れるのではないかと希望を捨てられずにいて、日帰り旅行までなんとかたどり着こうと這って進んだ。ただ、おかしなことに、少しずつ旅先への興味が失われてきて、楽しみにいきたい気持ちよりも「行かねばならない」という謎の感覚に囚われていた。
旅行の日は朝からどうも普段と違った。私は自他共に認める幸運な人間で、やめた方がいい事は何かしらの邪魔が入ってやらずに済むことが多く、やった方がいい事は追い風が吹くかの如く事が進む。私に学ぶことが必要とされる時はそれ相応の試練が用意されているし、おかしいなと思って立ち止まらなかったら大事になっていた、というようなことが多々ある。
この日は朝から邪魔が入っていた。予約していた川下りの時間に着くためには1時間半しか猶予がない高速バスしかなく、よほどのことがない限り間に合わない事はないだろうとそのバスを取ったのだが、事故渋滞で1時間半遅れ、予約に間に合う電車が出る5分前に停留所に着いた。PASMOが使えない駅で、慣れない運賃表を読み、滑り込みで電車に乗った。電車は途中、対向電車とすれ違うために待たないといけない区間があったのだけれど、その電車が7分遅れているとのことで長い間停車していた。昼食を取ることを考えるとギリギリだった。予定から2時間遅れでなんとか目的地に着き、無事川下りの受付はできたものの、本当に船が出るのかわからないほど川は増水していた。どう考えても「死んだら自己責任だと叩かれそうだな」と思うほどの川の様子で、いつもならキャンセルして帰る気持ちになるのにこの時はどうしても川に降りたかった。
予定の時間まで40分ほどあったので吊り橋に行ってみようかと探してみるものの、自分がどこにいるのか分からず橋自体もなかなか見つからない。看板はあったし、その方向に歩いてきたはずなのに、どうしても道が見つからなかった。お昼ご飯を食べたいお店があったため、吊り橋は川下りの後に回して食事に向かった。美味しい馬刺し定食を食べた。ここが一番平和だったかもしれない。その後すぐ川下りの時間になった。私以外にも3組乗客がいて、私が死ぬ時はこの人ただも一緒か、と思うと少し嫌な気持ちも減った気がした。船はおそらくよほどのことがない限り運行中止にはしてきてなさそうな雰囲気で、増水した荒れた川でもすいすいと観光客をもてなした。私は川岸の花にも木にも線路にも魚にも興味がなかったので、山から立ち込める靄をひたすら眺めていた。ガイドさんの説明はほとんど聞いていない。
15時過ぎに終点に着き、そこから何事もなく乗船場まで戻った。帰りの電車まで1時間半あったので、今度こそ吊り橋に向かった。どうやら先ほど行こうとしていた道は反対側の整備されてない方で、正規の道を通ると分かりやすく、5分ほど歩いただけで着いた。山から立ち込める靄がかなり好きなこともあってかっこいい景色だなと思いはするものの、以前の旅行で感じた、心に風が抜ける感覚は得られなかった。雨だからだと思った。吊り橋は案の定独特の浮遊感があって、ずっと求めてきた感覚のように思えた。このふわふわと地に足がついていない感覚。どこかにスッと飛んでいけてしまいそうな感覚。ずっと欲しかった。希死念慮がなくなってもこれだけはなかなか消えてくれない感覚だった。いい思いをした、と思いながら元の道に戻っている途中、何の看板もないけれど横道に入っていける階段があったので登ってみた。「これは戻った方がいいよ」と声をかける自分を無視して進むと、何かの施設の裏に出た。特に大した場所でもなかったが、少し怖くなって駅に戻ることにした。
最悪なことに高速バス乗り場に戻る唯一の電車が運休していた。ちょうど吊り橋を渡った時間に、大雨の影響で止まったらしい。たまたま元の計画より前1時間早めに駅に向かったため、タクシーに乗れれば問題なく乗車場に行ける余裕があり、運良くタクシーが一台だけ駅前に停まっていたので約30分の道のりをタクシーで移動した。〆て5千円。一時期タクシーで帰宅していた民からすると5千円はポンと出せる金額だ。とにかくあの村を出られたことにひどく安心した。
高速バス乗り場に着くと、予約したバスの1本前のものが停まっていた。怖い思いをしてお腹が空いていたので駅のキオスクで何か買おうと覗いたら何もなく、駅の待合室も人が多かったため、バスの停留所で1時間待つことにした。すると、バスから運転手さんが出てきて声をかけてきた。
「お嬢さん、何時のバスに乗るの?」
「18時発なのでこの後です」
「これに乗せてあげようか?」
あれよあれよという間に、運転手さんの手で私のこの地からの脱出時間が1時間も早まった。そのまま無事に東京に帰り着いたが、調べたところその1本後のバスは遅れに遅れ、それになっていたら私は終電を逃して家に帰り着けなかったようだ。優しい運転手さんがいて本当によかった。
帰り着き、いつも通りの生活に戻り、翌朝は行くべき病院の予約を翌週にずらし、少し起きて食事をし、昼寝をした。低気圧による頭痛がひどかったのだ。それから3時間後、部屋が暑くて目が覚めた。目が覚めた途端、いつも静かなウォーターサーバーが急にボコボコと音を立ててボトルを凹ませた。玄関付近で壁が鳴り、寝ているすぐ横の窓がガタッと音を立てて、上の階の住民が走り、窓側の壁がバキバキッと鳴った。信じてなくても分かる、私はあの村から何か連れて帰ってきた。やばいやばいヤバい!とにかくパニックになってベッドから動けず母に連絡した。連絡したってどうにもならないのだが、こういうのは1人で抱えるからどうにもならないだけでもしかしたら母がどうにかできる可能性も秘めてないこともないかもしれないしそんなこともないかもしれないけど何となくどうにかなるかもしれないだって私より25年多く生きてるんだもん!
母に連絡しているうちに雷が鳴り始め、もはやホラー映画乙、という気分になってきたことで逆に落ち着きを取り戻し、塩を入れまくったお風呂に浸かった。「何を連れてきたかわからないけど私はまだ生きたいです」と一生懸命心の中で唱えながら身体を清め、幾分かマシになった気持ちでお風呂から上がった。ただ、何となく嫌な気持ちになった感覚というのはすぐには無くならないもので、ソワソワし続けることに腹も立ち始め、大量の塩をこれでもかというほど玄関とトイレとベランダに撒いた。アパートを塩で囲ってやろうかとも思ったけれども、他の部屋に潜んでる何者かが塩によってできた結界に閉じ込められて出られず結果として悪影響を及ぼしたら嫌だなと思い、自分の部屋だけ玄関とベランダに線をひいた。心の中では何者かをボコボコにした。私は何者かにパワーで挑む、ホラー映画だと最初に死ぬモブキャラだろう。でもホラー映画の世界ではモブが一番幸せなのだ、序盤で殺されてしまえばもうそれ以上怖い思いをしなくて済むのだから。
朝、気持ちよく目覚めた。もう何もいない。いる気もしないし影響もない。最高の朝だ。今日は昨日受け取るべきだったコンタクトを受け取って、スタバでアフォガードフラペチーノを飲んで、映画館で『ヘルドッグス』の2回目を観て連休最後を締めくくるぞ。終わり良ければ全て良し。昨日までのことなんてもう無かったかのよう。今日のメイクはいつもとアイシャドウを変えてみた、かわいい!涙袋のグリッターも2種類を使い分けてみた、かわいい!去年着られなかったお気に入りのワンピースを着てみよう、ちょっと痩せたのか入った!かわいい!今日の私は最高!お金も払ってるからコンタクトレンズは受け取るだけだし!半年分もあるからまあまあな荷物だけどこれで眼鏡の不便な生活も終わらせられるから全く問題ない!店員さんが「何かソースかけますか?」って受け取りのところで急に聞いてくれてカスタムしたフラペチーノも美味しい!本も面白い!ああなんて最高な日!!映画もやっぱり面白いな〜私の中の坂口健太郎に世の中の坂口健太郎がやっと追いついた最高!!だから気の狂った役が合うって言ったじゃん〜〜〜!!!!
コンタクトレンズどこ!!!!
スタバから移動させた記憶もないけれど、なんとなく思い起こせば映画館でドリンクを買う前に寄ったロビーのトイレの赤ちゃんシートにジャストフィットだ〜と思いながら入れた気がする。スタバじゃないと思う。きっとトイレだろう、と思って見に行った。長蛇の列に心が折れかけながら並び、目当ての個室が空くまで後ろの人に「忘れ物を取りに来ただけなので先にどうぞ」と声をかけ続け、開いた途端にその個室に入った。赤ちゃんシートの上には、眼鏡市場でもらった自分の顧客番号が書かれた「ネット購入のすすめ」的な紙が置かれていた。明らかに私のものである。コンタクトレンズはどこにもない。しっかりきれいに左右6箱ずつ計12箱、〆て3.6万円。どこぞの誰かに持っていかれたのだ。
きっと、3週間か2週間前に「上司痛い目見ろ」と呪ったのがいけなかった。人を呪うと自分に返ってくると聞く。痛い目見ろ、はかなり優しくまろやかにしたわけで、本当はもっと酷いことを願った。絶対にそのせいだ。結局タクシー代とコンタクトレンズ代で4.1万円。ホテルと新幹線代を合わせればそんなものだろう。変な気持ちに囚われて行き先を決めず、危なそうなら計画を変更して、いっそ新幹線で行ってどこかに泊まってくればよかった。とは言えやってしまったことは仕方がない、きっと今回はこうなる運命だったのだ。危ないことは考えない、危ないことがわかっていて実行に移さない、死ぬかもと思うならやめる、人を呪おうと思わない。全部これを学ぶための代償だったのだと思う。むしろ、コンタクトレンズを失くしたことでえんがちょできた、と考えれば安いものかもしれない。
これからは「明るく楽しく元気に健康な気持ち」で、「人が多く明るく王道で活気のある」観光地に旅行することを誓う。
狂っても「どこかに飛んでいけるかも」などと思わないように。
あと私のコンタクトレンズ盗んだ人へ。そのコンタクトレンズには多分私の方で切れた悪縁が乗ってるので碌なことにならないと思います。気をつけてくださいね。