月が綺麗だからなんだって話で

アセクシャルな人間の雑記

金木犀

去年の秋、「この」香りが金木犀なのだと初めて認識した。秋は昔ずっと香ってた香りがするとは思っていたけれど、まさかそれが金木犀だとは思ってもみなかった。

私にとって金木犀のあの香りは、小学六年生の時に使っていた学校のトイレの香りだ。情緒もクソもない。おそらくトイレの裏手に金木犀の木があったのだと思う。置いてあった芳香剤は石けんの香りかラベンダーの香りだったし、トイレ掃除担当だった頃に強烈な香りだなと思ったクレンザーも金木犀とは少し違ったはず。

ただ、一年中香ってた気がする。小学六年生に関しては秋以前の記憶がないので、金木犀の香りと秋が結びつかないのだ。

 

あの香りのどこが人の心を揺らすのだろう。

小学六年生の秋、私を対象としたいじめが激化した。昔はそれが秋になると思い出されて憂鬱な気持ちになったり弱ったりしてそれこそ心を揺さぶられたけれど、何度も揺さぶっていると人は慣れる。日本人がそれなりの震度の地震に動揺しないのと同じように。もう今やこの香りを嗅いだからとて、崩れ落ちる心はない。

いつだって、コンクリート打ちっぱなしの、洒落てるんだか手を抜かれてるんだかわからないトイレの、横長の窓から見えた秋空だけが脳裏に浮かぶ。

 

あの頃私は、トイレの掃除が好きだった。毎週金曜日は裸足でサンダルを履き、床を磨いた。

デッキブラシは憧れの魔女のキキが飛んだものにとても似ていたけれど、トイレから飛べてしまったらそれこそ情緒が台無しになると思って、一度もまたがってみたことはなかった。それでもキキと同じデッキブラシを手に出来ることが嬉しかったし、学校から逃げられる週末が来たことも実感できた。

夏でも冷たい空気で満たされた少し不気味なトイレは、私のオアシスだった。

 

金曜日の掃除は、まず水道に緑のホースを取り付けて、床を水浸しにしてクレンザーを撒く。それこそトイレに充満する金木犀の香りを消すかのごとく、これでもかという気持ちで。

和式トイレが3個、洋式トイレが1個だった。1番奥の個室にだけ気をつけて、手前の和式トイレにはタンクまで濡らしてしまう勢いで水もクレンザーもぶち撒ける。

そこから、クレンザーをもこもこに泡立てるようにデッキブラシで床を擦り、便器を丁寧に洗い、タンクを拭き上げ、今度はこれ以上の泡が出来ないよう静かに大量の水を流す。このあたりで、もう私の安息の時間が終わってしまう実感が出てきて少し苦しくなっていたけれど、この世の水全部を使ってしまうのではと思うほどの水量を流し続けることでいつも誤魔化した。

山から直接引っ張ってきた水道から出る水はいつも冷たかった。夏には気持ちのいい冷たさの、冬は一刻も靴下を履きたくなる冷たさの水で足を洗い、金曜日のトイレ掃除は終わる。

 

掃除中クレンザーの黄色い化学的な香りでいっぱいだったトイレは、泡を流しきるとすぐ金木犀の香りに包まれていた。私はその香りが苦手で、しゃばしゃば振って香りのシートに液を補充するタイプの芳香剤を振りまくっていた。ラベンダーの香りは児童たちには不評だったけれど、私にとってはつらい金木犀の香りよりずっとマシだった。

今は金木犀の香りがすると、心が揺れない代わりに、足が冷える。冷たい水がどこからか流れてくる。パソコン室で過ごす昼休みの間に溜まった涙を洗い流していた水。死にたいと酔った心を覚ましていた水。

もう二度と香ってくれるなと、いつも思う。