人が感じた苦しみを、みんなが感じられるようになればいい。
誰かがぶつけられる小石に傷ついた時、その小石を投げた人全員にその誰かの苦しみ総量が返ればいい。
その誰かが死んでしまった時、その一つをぶつけた人間もどうにかなってしまえばいい。
これが実現できれば、人の気持ちを考えられない人間が淘汰される。それに、いじめ問題を裁く上で「実はいじめられた子が元々今回のいじめた子をいじめていた」という問題も解決されるんじゃないか。知らんけど。
しんどい。
今回、何が私をメンタル崩壊まで追い込んだかというと、
・ついこの前似たようなことがあって世の中の人が「誹謗中傷はいけない」「当事者以外が非難するべきではない」という当たり前に気づいたはずなのに、その後の不倫報道では非難の言葉がテレビでもネットでも溢れていたこと
・芸能人や著名人が報告したいとおもっていないプライベートが一般人に晒される必要があるのか、という疑問が日に日に濃くなっていたこと
・人の不幸を餌にする人が多いこと
・わからないのに「わかる」という人が多いこと
・想像力のなさが招いた事態が世の中に多すぎること
・どんな相手であれ、批判する必要がある場合や民意を示す必要がある場合であれ、言葉は選ぶべきなのに理性のない言葉が急に多く目に入るようになったこと
・悲しいことが起こった時、果たしてそこまで報道する必要があるのかと思うことが増えたこと
・これらに苦しさを感じた時に逃げ場を見つけられなかったこと
・その時にどこをみても苦しい話しか転がっていないこと
・これら全部がまた繰り返されていること
この辺りかと思う。
ひとつひとつは大したことはなかった。それに、これらはひとつの項目から湧いた感情ではない。それぞれがバラバラだ。私の目の前で起こっていることも、画面の向こうで起こっていることも、事が取り返しのつかないところまで行って初めて知ったことも、様々に入り組んでいる。全部タイミングもバラバラで、影響といえばその時々で少し私の心に影を落とすくらい。
だからてっきり都度解消できているかとおもっていた。何より私は自分が感じたことを表明するのは得意なのだ。ここ最近だって何度もそういう文章を書いて、自分の苦しい気持ちを解消しようとしてきた。
でも、さっき挙げたことを苦しいと思っているということに気が付いたのは、今朝大泣きしながら盛大な独り言を垂れたとき。
限界がきて涙と一緒に言葉にして、初めて、自分がそこまで追い詰められていることを知った。
追い詰めるに至った疑念や不信はどこに向いてるのかと言われると、それぞれ特定できないくらい大きくなっている。強いて言えば、私も含む人間全体。
だって、国や性別、歳が違ってもこの地球の至る所で同じようなことが起こっている。人を傷つける小石はいろんな境を越えて誰かにぶつかってしまう。でも、そちら側からあちら側に自分が小石を握っていることに気づかずに振りかぶる人がいるし、気づいていてわざと投げている人もいるし、正義だと思って投げている人もいる。
利益のために人の不幸を餌にする人たちも少しも減らない。さあ叩け!と言わんばかりに毎日毎日同じ話題を繰り返す。ひとは刷り込まれれば刷り込まれただけ気持ちが傾くし、視野が狭まっていく。ああいう番組は、人の視野を広げるために存在すると思うのだけれども。コメンテーターが全員同じことしか言わない、非難しかしないのなら、誰か代表で1人で出てきてほしい。ひとりの非難の言葉を聞くだけでも辛いのに、それを3人も5人も聞かせないでほしい。
苦しい。
どうせ明日になったら、また数ヶ月前と同じ表情の大人たちが、「どうして」「もったいない」「誹謗中傷はいけない」「助けを求めてほしかった」って言ってる姿がどのチャンネルでもみられる。不倫した芸人さんのことをめためたに非難した口で、揃いも揃って。
もういい。聞きたくない。何を言うかわかってることなんて、もう聞きたくない。
もっと、世界で、国内で起こっていることはたくさんあって、伝えるべきこともたくさんあるはずだ。どのチャンネルをつけても全部同じ話題ばかりで、新しい話も新しい見方も得られやしない。
それならどれか一つでいい。
大きな世界小さな世界、すべての世界がしんどすぎる。
もっと想像できないものか。