月が綺麗だからなんだって話で

アセクシャルな人間の雑記

桜梅桃李

おうばいとうり

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草木の枯れるこの時期にこの話をするか、という気もするけれど、私が一番好きな言葉がこの「桜梅桃李」(李は、すもものこと)

 

超端的にいうと、「それぞれが独自の花を咲かせること」「人も一緒でなくて良い、それぞれの個性を磨こう」といったところかと。とはいえ出典はそこそこあるので、一概にこの意味で広まるのはどうなんだろう、とうっすら思っている。

「みんなちがってみんないい」と要約されがちだけれど、この表現は昔から周りの大人が表現を逃げる時に使っていたからあまり好きじゃない。

 

「みんなそれぞれ良さがある」という一番有名な意味は日蓮の言葉で、

《是れ卽ち櫻梅桃李の己己の當體を改めずして無作三身と開見すれば、是れ卽ち量の義なり》

というもの。仏法の言葉で、序盤で私が超ざっくりまとめてしまった言葉よりはずっと深い意味がある。はず。宗教のことは私にはよくわからないのでこのへんで。

 

ちなみに桃李だけなら日本の古文だけでなく、中国の『史記』でも出てくる。

《桃李不言下自成蹊(とうりものいわざれども、したおのづからこみちをなす)》

桃や李は何も言わないけれど、花を咲かせ実を結ぶと、その香りにひかれて人が集まってくるので、下には自ずと踏み分けられて小道ができている、というどちらかというと人格者的な意味。

 

人前で好きな言葉としてこれを出す時、いつも「ああ、それぞれがそのままでいいよってやつね〜」と言われるのだけれども、そんな意味だけで好きな言葉なわけじゃない。

既に出したふたつだけでなく、昔の書物で色々と出てくる言葉なのだけれど、私は鎌倉時代に書かれた『古今著聞集』の中の意味合いが一番好き。この中の『草木』という話にこの言葉が出てくる。

『草木』の章が高校生の時に教科書か国語の資料集に載ってたのを見た時期と、俳優の松坂桃李さんが自分の名前の由来を話していた時期が被っていて、それ以来、私の好きな言葉になった。(お父さんが史記の意味を、お母さんが古今著聞集の意味を込めたらしい)

話を戻すけれども、古今著聞集の中だとすこし受け取れる意味が変わってくる。

 

《あゝ春は櫻梅桃李の花あり

    秋は紅蘭紫菊の花あり

    皆是れ錦繍の色 酷烈の匂なり

    然れども昨開き今落ち 遅速異なると雖も  

    風に隨い露に任せ 變衰遁れず

    有爲を樂しむに似て 無常を觀ず可し》

 

古今著聞集では、花や実をつけるところだけでなく、枯れる時の話や結局何事にも終わりがあることが書かれている。私はひねくれ者だから、栄えてる時だけの話をされても「どうせ廃れたらみんな忘れるのにさ...」と思うので、ちゃんと世の無常感をうたっているこの話が好きだ。

《風に隨(したが)ひ露に任せ》は、口に出すとすごくリズムもよいし舌触りが良くて好きな部分。それに比べて他のところはちょっとまごつくよね、鎌倉時代の人はこのリズムが心地よかったのかな。

 

もし今仕事を辞められてたくさんお金があったら、私は古典文学の勉強がしたい。百人一首とかもちゃんとすんなり意味を理解できるようになりたいし、御伽草子とか昔のすてきな物語をそのまま読めるようになりたい。大学に行って勉強するのも楽しそうだし、自分で図書館に行って、学生の頃に使っていたもうぼろぼろの文法帳を引っ張ってがんばるのも楽しそう。全部、そんな余裕ができたらの話だけれど。

今は、通勤中に読もうと思っていたのに藤壺で止まっている源氏物語を読み進められるだけの気力と余裕がほしい。

将来のことを考えると「もう色々はじめるには遅いのかなぁ...」なんて怖気付いてしまうときもあるけれど、そんな時にこの言葉をなんとなくふと思い浮かべて、「春と秋は若い頃という意味ではないと思うし、もし春はもう過ぎていたとしても秋が来るもんね」と最近ようやく思えるようになってきたので、すこしは成長したのかなと思いたい。

 

 

分類される安心感はもうない

(2つくらい前の記事の、進化版みたいな)

 

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アセクシャルの中にも色々と分類があるそうで。

グレーアセクシャルというのは《アセクシャルと他の性指向との間のどこかに該当する》らしく、そんなような気もするし、そうじゃない気もする。デミセクシャルというのは《情緒的に強い結びつきを持った相手に対してのみ性的魅力を感じうる》らしく、これもそんな気もするし違う気もする。

これまで私は分類されると「自分以外にもそういう人がいるんだ!」と思えて楽になってきたのだけれど、ここまで多いともうわからないし、最近は自分のこともそこまで細かく分類されなくてもいいかなという気持ち。

 

分類されるにおいて私の特徴は、

・恋愛感情そのものはいまいちわからない

・家族愛、友愛はもともとある

・親しくなればなるほど身体的なつながりはいらない

・性愛を持てたのは1人だけ

・愛情のないセックスはできるけど必要ない

・見た目が男性なすべての人にあらゆる気持ちを込めてできるのはハグまで

・全ての女性とそのほかの人にはあらゆる気持ちを込めてキスまではできる

・それ以上に興味はないし必要ない

・今の恋人以外に身体的なつながりを持ちたいと思ったことがない

と、分類に引っかかる部分だけでもこれだけある。調べた感じだとこの特徴ひとつひとつに言葉がつくので、もはや分類されたところで「自分と同じ人がいる」という安心は薄れたなというのが最近の感覚。

 

たぶん、私は人を好きになるのが得意じゃない。

いわゆる恋愛的な意味で。

恋人になる理由ってなんだろうか?という疑問に私は答えが出せたことがない。だって、一緒にいて楽しい人って友人の中にもいたし、自分より特別な人もいたし、誰に対しても自分が犠牲になれたし、いろんなことを共有したい人もいたから。セックスしたいならそれだけの関係でいいし。

私は全部恋人にならずにできると思う。

 

じゃあ今の恋人は何が違ったのかな、と考えると、

・一番近くにいたい、いてほしいと思えた

・手を繋ぎたいと思った

・この人に一番認められたいと思った

・この人と毎日いろんなことを話して、いろんなものを食べたいと思った

ことだと思う。むしろこれを周りの人に思ってこなかったことが驚きだけれど、《手を繋ぎたい》というのはその最たる例なのかと。

私は人に触れられるし、キスもできるし添い寝もできるし、まあセックスもできる。でも《触りたい》と思うことは皆無で、あなたが触りたいならどうぞ、といった具合だったのが、それまでの私で。だけれども、そんな私が「この人と手を繋いでお出かけしたいなぁ...どんな感じだろう...」と思ったのが今の恋人なのだ。

私はこんなことで「運命でしょこれは!」と思ってしまっている。

欲が生まれるというのは私にとっては大きな変化だった。どうでも良くない人が初めて現れたので、まあ戸惑ったし、当時彼には付き合っている人がいたし、でも一度認識するともう止まれないし、いやぁどうしようどうしようと思っているうちに色々事が起こり、事が進み、付き合うことができた。

(そんなにうれしいと思ってるんだったら喧嘩の量減ればいいのに、と自分でも今思ったところです)

 

いろんな分類の中で結局私がハマるのは

《どうしてか誰かにのみ性欲が働くけど、他には一切無い、ゼロ、何も感じない》

というところ。これに対して恋人氏は

《女性ならだれでも、多分男の娘もいける!》

という感じなので、欲に関して言えば正反対なわけで。だからお互いがお互いの欲の在り方が謎で仕方がないのだと思う。

実際この前「なんで他の人を性的な目で見られるかがわからない。私はその辺の男性に性的興奮を覚えたことはないし、AV観てても何も思わない」(※AV観ないでという喧嘩じゃない)と伝えたら、「いやぁ...普通のことだからなぁ...むしろそっちがわからないよ...」と言った感じの答えが返ってきた。

まあ当たり前の反応だと思う。そりゃこっちが異端だからね。私だって会ったことないもんね、そんなこと言う人。わかる、あなたの言いたいことめちゃめちゃわかる。だってその辺の女の人に「おっ」て思えないと人類はここまで増えてないわけだし。正常な反応をわからんと言われても、いやむしろなんでお前は思わないんだ?ってなる。わかる。正しい。

だけど、ちょーっとだけ、そう言う人間もいて、俺の彼女はそう言うタイプの人間なんだな、俺のことしか男として思えない俺のことしか魅力的に思えないって最高じゃん!じゃあデートするときはキョロキョロするの減らそう♡ってなってくれると嬉しかったなぁ〜あの日!

 

冗談はさておき、たぶん自分と周りの感覚にぼんやりとでも違いを認識してしまった人で、分類に当てはめて安心する人は多いと思う。どこかのサイトに「私たちアセクシャルは、何にでもなれるのよ」とあったけれど、それは強い人が思えることなんじゃないだろうか。私は何にでもはなりたくない。安定したい。ずっとそう思ってきた。

学問にして、研究して、色々理解を深めてくれるのはうれしいけれど、なんでも研究者魂でジャンルを作るのはほどほどにしてほしい。せっかく孤独を無くしてくれたすてきな枠なのに、今度は細かくなる枠のせいで前よりももっとさみしい気がする。

 

人の心はそんなに細かくできるものなのかな。

動物や植物の分類だと思われてる気がするよ。

 

25歳、もうすこし大人なはずだった

先日、25歳になった。

最近未来の自分が想像できない。

恋人と結婚してるといいなと思う。

もう少し広くてもう少し部屋の多い家に住んでるといいなとも思う。

犬と猫とフェレットがいるといいなと思う。

なんか漠然と、こんな程度しか想像できない。

 

私の中の理想の25歳は、もう貯金がそこそこあって、仕事も楽しく頑張っていて、休みの日は趣味を楽しんで、恋人がいて、もっと大人なイメージだったのだけれど。

どこで何を間違えたか、貯金はほぼなく、仕事はやめたくてしかたがなくて、休みの日は眠すぎて全然起きれず、月に数回恋人と喧嘩をし、その結果子供な自分にうんざりする日々。

間違えてきたつもりはないのだけど...うまくいかなかっただけで...という気持ちでいる。

ひとつ胸を張れることは、恋人氏のおかげで、私が積み上げてきたトラウマやタブー感をひとつずつ消化できていること!これはすごいことだと思う、恋人氏本当にありがとう。

 

だけどなぜか、お母さんになる自分とか、バリバリ働く自分とか、普段すごいなぁ素敵だなぁと思っている人たちのようになった自分を想像できない。

ひょっとしたら、そういう憧れの女性の年齢に近づいてその姿がより現実味を帯びてきたのに、自分があまりにも足りないからなのかもしれない。普通ひとは、こんなこと考えないでいつのまにかお母さんになったり、バリバリ働いたりしているのだとも思うし。

 

そんなこんなで、25歳はとりあえずちゃんと自分に自信を持てるように努力することにした。

自分の好きなものを好きと言い、好きな服を着て、好きなことを仕事にして、好きなものを食べて、そして自分を好きになる。それが理想。

絶望的な三日坊主なので、翌日には忘れているかもしれないけれど。

 

焦らず、すこしずつ、なりたい自分で生きたい。

 

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恋人氏が今年用意してくれたのは、31のアイスケーキでした。2人で食べるにはずいぶん大きかったけれど、大好きなポッピングシャワーとキャラメルリボンが入ってておいしかったなぁ。ほんとうに「ざこぴよちゃん25ちゃい」と注文したらしい恋人氏。

ざこぴよちゃんは、普段雑魚すぎる私を恋人氏が呼ぶときのあだ名。

25ちゃいは人間の年齢にすると半分の12.5歳らしい。あまりにも精神年齢がこどもすぎる私を見た恋人氏が決めた単位。

※このケーキも、前日微妙に険悪になって、当日の朝「出かけてくるから」と言われ、「ああ家出されたぞ」と私が落ち込んでいたら実はケーキ買いに行ってたよ演技だったよ、ってオチ。

恋愛ができないはずの私に恋人ができたら、それはもう私が不利なのです

もともとアセクシャルだと思っていた私に恋人ができてもう1年と半年弱。

なぜ「恒久的に身体的接触が必要なく、恋愛感情を持たない」と思っていた私が恋愛ができているかというと自分でも謎だけれど、この人と一緒にいたいと思って、奇跡的に相手もそう思ってくれていたから恋人になった。

付き合ってからは当たり前のようにキスもセックスもするし、この人とずっと一緒がいいと思うし、嫉妬もする。昔はとてつもない拒絶反応を示していた「女であること」にも徐々に抵抗がなくなっていった。「女であること」が当たり前になった今の私は、身体的接触も必要だし、愛情もある。

恋かどうかと言われると、ちょっとよくわからない。なんだかそんなに軽い話じゃない気もする。

 

私は常によくわからないことを言って恋人を困らせてしまう。今日もまた恋人にぶちまけて、いつもよりもさらに困らせてしまった。

私の「気にしないでいよう」という心が折れてメンヘラ化するくらいに溜め込んでいたこと、それが、

「どうして他のいろんな女の子を、そんなにたくさん目で追うの?どうしてかわいいとか、エロいとか言うの?どうしてそんなにたくさんの女の子を見るの?」

ということ。

過去にもこのことで私が一方的にけんかをふっかけたことがあったのだけれど、その時にもうこればっかりはこの人は意地悪でやってくるし、あまり気にしないようにしよう、見ていることを私が見なければいい、と一度自分の中で飲み込んでいた。それはもちろんずっとうまくいっていたし、私もかわいい女の子は好きだから、「あの子かわいいよ」という言葉に「本当だね、かわいい」と返すこともできていた。かわいく嫉妬できていたらいいや、というくらいにおさまっていた。はずなのだけれど…。

 

今日のデートの終盤、私は突然その時間までの、恋人氏の視線の先が女の子だらけで、私の耳に届く言葉が他の女の子についてで、私の話も中途半端に顔ごと他の女の子を追う姿がリフレインしてしまい、どうしてか我慢ができなくて、私の中のメンヘラちゃん爆誕した。

「もう無理!がまんできない!私が隣にいるのにどうして他の女の子ばっかり気にするの!私のことしか見えなくなってよ!!」と。

 

そこからはもうお互い地獄。

「なんでよそ見ばっかりするの?」

「してないよ」

「私のこと褒めないのにどうして他の人は褒めるの?」

「ちゃんと着替えた直後に褒めてるよ」

「なんで他の人をかわいいとかエロいとか思うの?」

「男として【こういう女とヤリたい】という目線でパッと追ってしまう部分がある、実際に手を出すわけではないにしてもね」

「なんでかわいいとかエロいとかを私に言うの?」

「かわいい人がいるって情報として単純に共有したかっただけだよ」

この答えを聞き出すために、1時間私はうだうだめそめそし続け、1時間恋人氏は追求された。生産性のない時間、苦痛しか生まない。

「ごめんね」「ごめんじゃなくて、なんでなの?」としつこく迫ってここまで聞き出して、納得するために導き出した(逃げた)私の答えは、「種として、雄として雌を追うのはもう遺伝子レベルで決まっていることなので理性でコントロールできるところではない、理性が働くのはこれよりももう少し表層の、手を出すかどうかというところからなのだ」、以上。

こう考えると、彼がデート中にもかかわらず女の子たちを目で追ってしまうのはもはや脊髄反射、理性の及ばない範囲のことなのだと解釈した。ここは解決。

 

私が理解できなかったのが、「【ヤリたい】と思って目で追う」=「性的対象として恋人以外を見ることができる」という点。いやいやそこまでひどいこと言ってないよ、という反論もあるかもしればいけれど、一旦この理論でいかせていただくと、私にはこの「性的対象」として頭を動かせる人が恋人の他にいないのだ。だから、そこがわからなかった。

私が恋人に対して重くて一途すぎるだけ、ということももちろんあるのかもしれないけれど、恋人も私のことをとても大切に思ってくれているし、愛してくれてもいる。それを私もわかっているし、私が恋人のことをとても大事に思っていることを彼自身も知っている。知っている上で、あぐらをかいてもいない。だからこそ、私の中で彼が本当に「性的対象として異性を追っている」というのがより問題視されてしまうのだ。

 

冷静に考えてみると、私は今の恋人以外に性欲が抱けない。一人で性欲をどうにかすることもないし、実際触ってみても何も感じない。恋人といちゃついてる最中に自分で触れさせられても急に真顔になるくらいなんともない。

私の中でそういう快楽や快感と繋がっているのは事実として恋人しかいないのだと思っている。

ちなみに元彼は嫌悪感しかなかったので、その部分の不一致で別れたし、クッソ寂しいと思った時も一緒にご飯を食べてくれる人がいたらそれで十分だった。多分もし何かがあって今の恋人がいなくなってしまったとして、その時私は新しい恋愛対象を求めないと思う。この人が好きすぎるから、という意味ではなく自分の性的指向として。

 

恋人を除けば、彼と付き合う前に持っていた「触れたい欲がない」というのはそのまま残っているような気がしている。

私もさすがに社会人で毎日いろんな人と顔を合わせているので、言い方は悪いけれど、ピンからキリまで物色できる機会は十二分にある。「この人仕事ができる人で素敵だなぁ」「この人は優しいなぁ」「好きな顔だなぁ」ということは思うけれど、それは「恋愛対象」として意識していないし、この人たちに性を感じたくない気持ちもとても強い。これも恋人のことが大好きだから、ということよりも「(恋人を除く)他人に性的魅力を一切感じない」と考える方がしっくりくる。

 

そう思うと、「他者への性的な魅かれの少ない人間」にどうしてか奇跡的に「全てを許せる人」が現れて、その人のたゆまぬ努力の成果として今の私がいる気がした。

だから私の深層部で「他者に性的に魅かれる人間」の言動が理解できないのだと思う。

 

とはいえメンヘラ化して恋人のことを追い詰めていいことにはならないし、むしろこの人しかダメな気がするのならなおさら大切にしないといけないのだから、全くもっとしっかりしろよという気持ちで今はいっぱいなのだけれど。

何はともあれ、恋愛感情がしっかりあって、他の誰のことも性的にみられる人のことを、ヘテロを手放せなくなった中途半端なアセクシャルが負けなのだろうね。

 

 

夜眠るときの話

特にたいしてこれといったことはない。

のだけれど、毎晩彼の腕に抱きついて寝るのが好きだな、とふとおもった。

 

セミダブルの狭いベッドで、彼は私が窮屈にならないようにとずいぶん端に寄って横になる。そんな彼を、少し真ん中に引き寄せて、その腕に抱きつく。いつも私が壁際で、彼の方を向いて眠るのだけれど、私は彼と付き合うまで壁を向いてないと寝られなかった。

誰かと眠る時はその人を壁際にやって、私は壁を向いて寝ていた。そのくらい、広い空間を見て寝るのが苦手だった。

 

じゃあどうして彼となら壁を向かなくても寝られるのかというと、まあ十中八九、安心感があるのだとおもう。

私は彼の方を向いて、ときには彼の腕に顔を埋めて、ときには彼の頭を抱きかかえて眠る。彼の向こうにある空間を感じても、その空間に虚無はないし、死も孤独もない。黒いヘドロが押し寄せてくることもない。

そこには彼と私の暮らす、あたたかい空間だけがある。

 

彼の傍は心地がいい。

静かにしてると眠たくなるくらい落ち着く。

私が壁を向かなくなったのは、人が一番無防備な「眠る」ときに全てをゆだねられる存在が私にできた、という証拠なのかもしれない。

喧嘩をした時は壁を向いてしまうけれど、彼の寝息が聞こえたらこっそり寝返りして、こっそり抱きついている。すごく好き。

 

1年前は、寝るつもりなのに色々と始まり気がついたら数時間も経っていて、へとへとになりながら寄り添って眠ることも多かった。

そういう夜ももちろん大好きだけれど、というか最近そんな夜はないので少し恋しい気持ちもあるけれど、今の私は、「電気消しじゃんけん」をして、おやすみとキスをして、彼の腕に抱きついて眠る夜が、一番好き。

 

 

街を出て脱皮した話

 

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おだやかで、ゆるやかで、まさかそんな生活を送れると思っていなかったから、今、とてもよい日々だと思う。

 

ちょっと前に、去年彼と半同棲していた街に行った。通っている眼科があって、3ヶ月に一回程度きているからか、懐かしさというのはあまり感じてない気がする。

激情まみれのこの街は、私にとってはあまりふたりで戻りたい場所じゃない。

 

この街にいたのは、付き合いだしてから半年だけ。

それなりに好きな街だった。都心に出るのも楽で、おいしいインドカレー屋さんもあるし、スーパーのとなりにはドラッグストアもあって、駅から家に帰るまでのあいだに全ての事を済ますことができる。一番好きだったのはアパートのすぐ近所にあった、コインランドリー。夜中に彼とふたりで洗濯物を運び、コンビニで買ったアイスや肉まんを隣の公園で食べながら待っていた。ブランコを全力でこいで酔ったこともあった。そんな私を見ながらたばこを吸う彼は、こんなこどもな私とは違って、大人な感じがしてかっこよかった。

そこそこ広い部屋、そこそこ広いおふろ、すばらしく広いキッチン。階段で4階に上がるのだけ大変だったけれど、彼の住んでいるアパートも街も好きだった。

 

それでもできればふたりで戻りたくないのは、この街における記憶はほぼ、喧嘩ばかりだからかもしれない。

喧嘩ばかりだった半年間、私が一番苦しんだのは「昔の女」の存在と影響力。どんなに今の自分たちを思っても、今に続く過去がある以上、私にとってその影は切り離せなかったし、これでもかというほど苦しかった。どうしたら気にしないでいられるかがわからなかった。

 

そんな私だったけれど、彼の努力と自分の努力のおかげで(ほぼ彼の努力)、今では「元カノさん」と呼べるようになり、昔話でダメージを受けることもなく、かわいい嫉妬で話を締められるようになった。えらい。

でもこの前この街に戻ってふと思った。私が彼の過去を気にしなくて良くなったのは、もちろん双方の努力もあるけれど、きっと、この街を出たからなんじゃないか、と。

今の街に引っ越してからもたくさん苦しいことはあるわけで、それなら何が違うのかと言われれば、たぶん、彼が昔愛した人との生活がない街だということ。

 

私は欲張りだから、彼にとっての最初で最後の女がよかったし、私自身はいろんな人に欲しがられた後でありたかった。

 

おそらくふたりが、今私たちが住んでいる街に降り立ったことはあったと思う。でも生活は、暮らしはなかった。他人である誰かを受け入れ、誰かとともに暮らすというのは、それはやはりある程度愛がないとできないことだと思う。それを彼がそれなりに「してもいい」と思えた女性が、私以前にいた。そして、その街で数年間、ふたりはそれなりの将来を見据えて暮らしていたのだ。そんな色のついた場所で、私は彼との新生活を送っていけなかった。

 

私自身も、自分が欲し欲された記憶のある街を出て、ほぼまっさらな今の街で彼と暮らすようになって、ようやく色々と落ち着いた。自分にとって都合の良い街を出る必要もあったらしい。大学進学とともに上京した当時から住んでいる街は、すばらしく居心地がよかったし、私の上京物語は全部この街で完結するくらいに、いろんな思い出があった。ひょっとしたらずっとこの街にいるんじゃないか、なんてことを考えたこともあった。

そんな予感とはうらはらに、私はあっさり街を出た。

でも、街を離れたあの日、意外にもなんだかすっきりしたのだ。

 

大好きな自分の部屋が空っぽになって、なんとなくすかすかになった身体で彼の待つ家に入って、それからら少しして、お腹の底から、大きなため息が出た。そのとき、なんとなく、脱皮した気持ちになった。

そうしたらなんだか、ここにたどりつくためのこれまでだったのかな、なんてかわいいことを考えられた。

 

それからそこそこのスピードで、「元カノさん」と呼べるようになって、今では「元カノさんとの生活の数百倍、私との生活を楽しくさせやる!」と息巻いたり、まあ気合いばっかり入れてても良くないなとふわふわしたり、もやもやしたり、ぴよぴよしたりしている。

 

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とある地下鉄の始発駅がある街の、12畳ワンルーム。最近彼が買ったロードバイクと植物たちでまた賑やかになったこの部屋が、私の世界で一番好きな場所だ。

 

すべての女性が素敵で、敵に見える話

付き合い始めの頃、私より恋人氏の方が嫉妬しいだった。同じ職場だったから私が男性と話しているところがよく見えて、彼は苦しい思いをしていた。

その頃の私は嫉妬といえば、彼の元カノのことばっかりで周りの人に嫉妬することはなかったから、彼の苦しさがいまいち分からなかった。

ところが、同棲を始めた3月あたりから、私は彼が私以外に発する「かわいい」に心穏やかでなくなることが増え、むしろ元カノはどうでもよくなった。今では普通に笑って元カノとの話を聞けるし、2人が飼っていたペットの話も聞ける。かわいいとも思う。つまりは、敵が「元カノ」というたったひとりから、「それ以外の全女性(彼のストライクゾーンすべて)」に移ったわけだ。

 

彼が他の女の子に「かわいい」と言うと、私も「あの子はたしかにかわいいな、ああいう人と付き合えるチャンスがあったらそっちに行くのかな」と思う。

彼が「あの服かわいいね」と言うと、私は「自分には似合いそうにないけど、本当は彼はあんな服が似合う人と付き合いたいんじゃないかな」と思う。

「あの子、意外とおっぱいあるんだね」と言われると、「私にはもっと大きくしてとか服着るとあんまり大きく見えないって言うくせに、私よりも小さいおっぱいの人のことは褒めるんだ」と思う。

「あのおしりいいね、ああいうズボン穿いてよ」と言われると、「他の人を性的な目線で見て満足して、お前もそうなれよ俺を満足させろよと言われてるみたいで嫌だな」と思う。

 

全部、自分に自信がないだけだ。

全部、私の被害妄想に他ならない。

からしてみたら、そんなつもりでは言ってないし、こんなに大事にして大好きでそれを伝えてもいるのに、なんでそんなに不安になることがあるんだと憤慨したくもなる。私が怒る度に「君が一番だよ、君しかみてないよ」と伝えているのに、なんでこうなるのかと。

私も、恋人氏が私のことを一番で思ってくれていることはわかっている。それだけ愛情もたくさん注いでもらっている。ちゃんと、わかってる。

 

ちょっと、度が過ぎてしまっている。好きという気持ちがなんだか大きくなりすぎて、よく分からない方に転がっていってる。良くない。これはきっとエゴだ。

 

「私だけを見て、私だけを知って、私だけをその世界に入れてほしい

私は誰のことも見ていないから、形の上でも心の上でも私と同じように誰も見ないでほしい」

 

ただの汚い独占欲で、支配欲だと思う。好ましくない。

素敵だなと思うのなら、自分もそうなれる努力をすればいい。

かわいいと思われたいなら、かわいくなる努力をすればいい。

相手の目を奪わず、相手の視界の中で一番素敵になればいい。

 

またこの1年も、私の中の大きな課題にもがき苦しみ、来年の今頃には「そんなこともあったなぁ」と思うことになるのかもしれない。

「あの頃あんなにひどいことを言って恋人氏を苦しめなくてもよかったのに...」

元カノのことについて散々ふたりでもがき苦しんだ去年を思い返して、そう感じる。来年また、同じように思いたくないから、足を地面にしっかりつけて、あんまり脳内お花畑にならずに、恋人氏とまいにちを過ごしたい。

また、たくさん笑える、明るいまいにちを過ごしたい。